ここ最近のロケフリとの付き合い方。
前回のエントリーから、ずいぶん時間が経ってしまった。その間、「ロケーションフリーテレビのある生活」は、すでに当たり前になり、家族からも特別な存在としてチヤホヤされなくなっている。ちょっと寂しい気もするが、それはそれで本来あるべき姿であるともいえる。テレビとは、元来日常の象徴であり、決して特別なものとして扱われるものではないからだ。
たとえば、朝。朝食をとるテーブルの上には、ロケーションフリーテレビがある。それでニュースを見ることもあるし、昨夜録画予約しておいた番組を見ることもある。思えば、HDDレコーダーにつなげたのは素晴らしいアイデアで、これまで録画予約してもなかなか見なかった番組も、このロケーションフリーテレビのおかげで割と気軽に見るようになったのだ。一度見た番組は、よほどのものでない限り、速やかに消去。これを日々励行することによって、HDDの中に溜まっていたコンテンツは少しずつ減り、残り容量が増えていく。こんな作業を朝食のついでに気軽にできるようになったのも、ほかでもないロケーションフリーテレビのおかげ。しかしそんなありがたみも、日々使っているうちに「当たり前」になってしまうのだから、慣れというのは恐ろしいものだ。
夜、お風呂の供としてロケーションフリーテレビを持ち込むのも、すでに当たり前。このごろは意気込んでコロンボをじっくり見ることもなく、リアルタイムで放映されているバラエティをボーっと眺めたり、定期的に録画している音楽番組をつけっぱなしにしてBGM的に楽しむこともある。これは使っているうちにわかったことなのだが、コロンボみたいに長時間じっくりと見るような番組は、お風呂テレビにはむいていない。夢中になると、湯あたりしてしまうからだ。それよりは、いつでも見るのをやめることができる番組…たとえばお笑いバラエティや音楽番組のようなもの…のほうが、お風呂には向いているようだ。
こんな風に、日々の暮らしの中にすっかり溶け込んでしまった我が家のロケーションフリーテレビ。なかなかブログのネタが出てこないのも、特に意識せずに使うようになってしまったからなのかもしれない。いわゆる「恋愛期間」が過ぎ、「家族のような存在」になってしまったということなのだろうか。
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